2013年3月27日水曜日

がんばれ、オーストラリア代表!そして黒歴史へ・・・? その1 オーストラリアサッカー、ワールドカップ挑戦の歴史

さ、オーストラリアサッカーの歴史を勉強してみましょう!

元々が英国移民によって始まった国ですので、サッカーは古くからあります。よく犯罪者の子孫だ、なんて馬鹿にされますけど、犯罪者と言っても政治犯などの軽犯罪者、その中でも建築技術などの職人さん達が主に選ばれて強制移民させられているんで、マッドマックスのような救いようのない世界ではなかったようです。ま、どこの国にもどうしようもない連中はいるんですけど・・・


ま、そんな訳で、1911年にサッカー協会が設立されまして、ワールドカップへの挑戦は古くから、ペレのいた1966年には結構いいところまでいきました。


で、ワールドカップへの初参戦はなんと日本よりも早い1974年!西ドイツ大会で、なんと開催国でチャンピオンの西ドイツ、そしてライバル東ドイツと同組になってしまう、という悲劇的な組み合わせ。1分2敗、という結果に終わりました。くしくも日本の初参加と同じ結果ですね。

オーストラリアの地理的な不利、というものが呪いのようにオーストラリアに降り掛かるのはこのあと30年続きます。

 
そもそもオーストラリアはオセアニア地域に組み込まれていまして、これはオーストラリア、ニュージーランド、そしてサモアやフィジーなどの南太平洋諸島によってなるサッカーの組み分けになります。FIFA内における地位も低く、コンフェデレーションカップやワールドクラブチャンピオンシップだけは別として、ワールドカップ予選では一度も出場枠をもらえた事はありません。なので、オセアニアチャンピオンはいつも南米、ヨーロッパなどのワイルドカードとのプレイオフの結果次第、というとても高いハードルを未だに課せられています。

そのせいでこの1974年後はずっと低迷期が続きまして、はや20年。1994年アメリカワールドカップの予選ではオーストラリア史上最強(凶でもいいです)のプレイヤーとして伝説に残るロビー・スレイターを擁してオセアニア予選を圧倒的な強さで勝ち抜き、北中米のワイルドカードとして登場したカナダとのプレイオフを激戦の末制したオーストラリア代表に国民が沸き立つ中、無常にもFIFAはプレイオフをもう一試合用意してくれました。それが南米4位、ディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンでした・・・

1998年。日本が激闘の3位決定戦を延長戦ののち制し、初出場を決めたフランス大会。今回のプレイオフはその日本の相手、アジア4位イランです。ヨーロッパや南米にくらべたら格段に落ちる相手。オーストラリアの攻撃を率いるのは、当時破竹の勢いで英国を、そしてヨーロッパを席巻していたヤングスーパーリーズユナイテッドの象徴、若きアタッカー、ハリー・キューウェル!そして同チームの無骨なストライカー、マーク・ビドューカ!これはいける!誰もがそう思いました。イランでのアウェー戦、1-1!ホームでは2-0でリードをするチームを見て、オーストラリアサポーターは歌いだしました。フランスへー行こー!フランスへー・・・・

・・・それが沈黙に変わるまでそう時間はかかりませんでした。オーストラリアサッカー史上最高の観客数を記録したこの試合の結果は、2-2。アウェイゴールルールでイランがまさかの滑り込み。

それでも、まだ20歳そこそこのハリー・キューウェルを擁するオーストラリアには希望がありました。俺達にはハリーがいる!その頃有名になりだしたハリー・ポッターとオーストラリアの愛称になぞらえてOz(オズ)の魔法使い、と呼ばれる若者の率いるオーストラリア代表、2002年、ワールドカップ・ジャパンの予選に挑みます。そしてプレイオフを迎え撃つは、相手は知る人ぞ知る、エル・チノこと、当時イタリアはセリエAで活躍していたファンタジスタ、アルバロ・レコバを擁するウルグアイでした。ところがどっこい、この当時のオーストラリア代表は前述のマーク、ハリー、ロビーに加え、マーク・ボスニッチ、スタン・ラザリディス、オーリオ、トニーのビドュマー兄弟、ケビン・マスカット、などなどプレミアリーグのスターティングメンバーに並び立つ選手が勢ぞろい、史上最強のドリームチームだったのです!そんなチームがホームで1-0と先勝。ああ、またお祭り大好きなオーストラリア人の悪い癖が・・・もう勝った、とばかりに朝まで飲んだくれてました・・・

ウルグアイのホームでけちょんけちょんにされたオーストラリアはついに不退転の決意で2006年ワールドカップに挑むのです!

続く

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