と、いうわけで、2006年!日本にとっては悪夢の、オーストラリアにとってはビールが美味しい!そんなワールドカップがやってくるのですが、さて、オーストラリアはその当時はどんなチ-ムだったのでしょうか?
前回の悲劇の後、悲しいことにカリスマ、ロビー・スレイターが引退を宣言しました。ドリームチームは解散、と思いきや、プレミアリーグでトップ3に選ばれたスーパーGKマーク・シュウォルツアー、北の巨人グラスゴーレンジャースで守備の要を担ったクレイグ・モア、中盤のダイナモ、ティム・ケイヒル、小野伸二と共にフェイエノールトでヨーロッパでUEFAカップを制したハリーの同級生、ブレット・エマートン、イタリアの潰し屋ビンス・グレラ、覚醒し始めたゲームメーカー、イタリアはパルマのマルコ・ブレシアーノ、頭角を現しはじめたハイタワー(現在名古屋グランパス所属)ジョシュア・ケネディ、などと、前回にもましてドリームチームがさらにパワーアップ!
そして、なんのいたずらか、プレイオフは因縁の相手、またもやウルグアイと相成りました。前回と違うのは、初戦がウルグアイで行われる、ということ。これ、実は重要でして、ホームを後に残しているチームは少し有利なんです。まずはアウェイを守りきって、ホームに全力を尽くせばいい、となりますから、精神的に、ね。
オーストラリアは早々とアルゼンチン入りしてキャンプを張るのですが、ここでウルグアイサッカー協会、オーストラリアが怖かったんでしょうか、策を弄してきます。直前になってオーストラリアでの試合日を変えろ、といってきたんですね。直前にウルグアイの首都、モンテビデオで暴動が起きまして、ちょっと治安に問題があるから、ごめんと。その日のためにすべとの準備を整えていたオーストラリアの答えははもちろんノーです。そうするとウルグアイ、今度はこう言ってきました。
「じゃあ、ウルグアイでの初戦、夜の9時開始ね」
これやっちゃうとですね、当日手配していたのオーストラリア直行のチャーター機に乗れなくなるんです。民間機を乗り継ぎの上で帰るしかなくなるんですね。オーストラリアはもちろん抗議するのですが、ウルグアイ開催試合なのでどうしようもありません。
と、こ、ろ、が・・・やっちゃいました!ウルグアイ、自分達が手配していたチャーター機の時間をずらし忘れました!おばかさーん!
「・・・ごめん、やっぱ時間通りやろ」
などといっても後の祭り。結局、FIFAの仲裁が入り、ウルグアイでの試合が午後6時に開催されることが強制決定され、オーストラリアは予定通りチャーター機で、ウルグアイ選手は泣く泣く民間機のエコノミーでオーストラリアでの第2戦を迎えることになるのです。
そんなすったもんだはあったものの、そこは腐っても南米の古豪ウルグアイ。初戦を1-0と、きっちり勝ってきます。あとは90分、守りきるだけ。地元オーストラリアは8万人のファンの声援を受け、鬼の形相で攻めたてました。ブレシアーノがボールをまわし、ハリーがドリブルでサイドを切り裂く。ビドゥーカがトップでボールを納めて、モアとシュウォルツァーがカウンターをことごく止める。息を呑む緊張感の中、歓喜は訪れました。
2005年11月12日 試合開始後35分過ぎ、中盤の要、マルコ・ブレシアーノがゴール前の混戦に飛び込んで先制!
この後、2試合合計、同点のまま試合は終わり、PK戦の末にオーストラリアは30年の歳月をかけてワールドカップへの切符をようやくもう一度手に入れます。この時のスタジアムは本当に地響きを立てていました。移民の国、オーストラリアが歴史上初めてひとつになった瞬間でもあります。
では、次回ではその移民について語りましょう。
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